昨日の夜からずっと降り続けてる小雨のせいで視界も悪けりゃ足元も悪い。
ところ狭しとびっしり並んだ同じ形の石。標的が何だろうと見失うのは沽券に関わるってもんだが、逃げも隠れもしない物言わぬ墓標を目の前にした瞬間は僅かばかりの高揚があった。
仕事とは訳が違う。向けんのも銃口じゃなくて花束だ。長い付き合いの幼馴染みには「似合わない」と笑い飛ばされそうだが今日くらいはらしくないことをしてやっても良い。
「傘、持つよ」
15分ほど後にやって来た女は右手に花、左手には傘を携えている。芝生の下のぬかるんだ地面にヒールが引っ掛かるらしく今にも転びそうだ。
「ありがとう」
遅れるから先に行けと律儀に連絡を寄越されたが、そんなもんは無視して入り口で待ってりゃ良かったって?生憎だが俺たちはまだそういう間柄じゃない。
少なくとも彼女自身にとってはこの過程が重要だった。なにせ彼女がここに一人だけで足を運ぶのは、今日が最後になるからだ。服の裾が汚れるのも構わずその場にしゃがみ、石に刻まれた元恋人の名をなぞる当人は知りもしない事実だが。
「このタバコ、スタンリーの?」
「ああ、あいつも吸ってたろ?タバコ」
「そうだねぇ」
不慮の事故だった。愛する恋人の突然の訃報に崩れ落ちそうな彼女を真っ先に支えてやれる位置を占領し続けてたのは、俺だ。
何があっても俺だけはあんたの味方でいる。彼女にそう言ったのは嘘じゃない。
「そんだけ悼んでくれる女がいりゃ、あいつも幸せだろうよ」
死者の気持ちの代弁なんざ俺にとっては何の意味も持たない。だがこの女にぽっかり空いた穴がそれで埋まるってんなら吝かでもなかった。
この地面の下に眠る男がついぞ幸せにしてやれなかった女を守るのが、生者の義務なんでね。
「こんな雨の中会いに来てくれる友人がいるのもきっと幸せだね」
友人と言えば聞こえは良いが、俺はその友人とやらに最後まで警戒されたままだった。彼女からこんな能天気な言葉が出てくる辺り、そういうのは男同士うまくやってたってことだ。
「でも一個だけ。あの人ね、スタンリーの吸ってるやつは好みじゃないってよくぼやいてたよ?」
「へぇ、言ってくれんじゃん。知ってたけど」
俺もあんたが好きだった銘柄はどうにも鼻について気に食わなかったよ。あの匂いが目の前の彼女から香るだけでどうにかなりそうだったね。
「まぁつまり、あんたの勘は正しかったってわけだ」
「……ん?ごめん聞こえなかった」
「いや、いいよ」
満足……はしてないだろうが、ようやく体を起こした彼女が俺に預けた傘を手に取ろうとするのを、腕を上げて遠ざけた。こんな長物は男にでも持たせときゃ良いってのを未だに分かってないらしい。
「さすほどの雨かね」
「クセみたいなもんだよ、前住んでたとこの。ここの人たち全然傘ささないし来たばっかりの時びっくりしちゃった」
彼女の言うここの人たちにしっかりと含まれてる俺は案の定自分の傘なんか持っちゃいない。
「帰んの?向こうに」
「それも考えたけどね」
同じ傘の下にいるんだから、俺と彼女の距離は当然近い。彼女が雨に曝されないよう、隣に立つ男がその薄い肩を引き寄せてやるのも当然だ。
「ったく、寒いつったのにあんた薄着してきたろ」
「ちょっと油断してたかも。……ねえスタンリー、私、帰らないよ」
「……そりゃあ良かった」
「もう、ほんとに思ってる?」
「思ってんよ」
ここが気に入っているのだと、女は真っ赤になった鼻を啜りながら小さく笑って見せた。
さよならともまた来るとも言わず、俺達はそのまま自然と足を動かした。
この世界を生きる俺達に死んだ人間の声は聞こえない。死んだ人間が俺達を一方的に見てるなんてのもおかしな話だ。
死者が俺達にできる唯一の干渉はその心に居座り続けることだが、生きてる限り人間てのはどうしたって変わってくもんで彼女も心の奥底ではそれを理解してる。
あんたが歩けなかった道の先に、俺達は進む。なに、それなりに上手くやるつもりだ。
「出たら吸って良い?」
「どうぞお好きに」
次ここに来る時はこの女もあんたの大嫌いだった煙の匂いになってっけど、文句は垂れんなよ。あんたはこれまで彼女がくれた愛すべき思い出ってやつと永遠に眠れんだからさ。
2021.4.25 In Loving Memory
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